モンゴル国の作曲家ゴンチグソムラー(1915~1991)がモスクワ音楽院に留学していた間のことについて考えてみるとなかなかすごい時期です。すなわち、ソ連がスターリングラードの戦いに勝利した1943年に留学を開始し、対独戦真っ只中の愛国的な空気(音楽で言えばショスタコーヴィチの交響曲第7番)を吸い、第二次大戦の終結とその後の雪解け(ハチャトゥリアンの交響曲第3番やジャズの人気)を肌で感じ、1948年のジダーノフ批判吹き荒れる政治の統制をその目で見て、1950年に帰国しています。ゴンチグソムラー自身の回想録などが公になっていない(というか、そういうものがあるのかどうか不明ですが)ので、彼が留学を通じて何をどう感じたかは、詳しく知ることはできないのですが、こんな時期にモスクワへ留学した音楽家は彼か、作曲家ツェレンドルジ(1945年から50年までの5年間)しかおらず、後の作曲家同盟結成などの活動は留学での経験を踏まえて行われたことでしょう。
ゴンチグソムラーの残した発言によると、彼が交響曲作家として尊敬できるのはベートーベン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、彼らの水準に達していなければならない、ショスタコーヴィチの交響曲ですら、そのうち何曲かは陳腐なものだ(一体何番が陳腐なのかは発言が残っていないが…)、と語っていた。オペラ作家として尊敬できるのはグルック、ヴェルディ、ワーグナーを挙げ、その他はあまり誉めなかったといいます。
しかし、和声や旋律の音遣いなどの自分の作品の作曲技法に影響を大きく受けているのはドビュッシーだという。作品に対する哲学としては、ハイドンの整った形式や、モーツァルトの軽やかな才能より、自らの人生観を作品に込めることを重視しつつ、自らの民族性を表現するのに、(これは日本の作曲家と共通しますが)ドビュッシーは格好の先生だったのでしょう。ピアノのための24の前奏曲にはドビュッシーの影響が色濃く出つつ、モンゴルの作曲家として初めてバッハも手を染めたこのジャンルに挑戦する意気込みを感じます。
交響曲第2番などでは、中間楽章や終楽章のコーダこそ社会主義リアリズム的明快さを追求していますが一部には大胆に不協和音を用いて当時の現代世界で起きている問題とも関連を保とうとしています。
モンゴルの伝統楽器のための作品を新しく創作した作曲家と言えば、楽器改良や民族楽器オーケストラの立役者ムルドルジの名前があがるだろうが、ゴンチグソムラーは早くも1956年にはホーチル(二胡)、ショドラガ(三弦)、ピアノのための三重奏曲を書いている。これはムルドルジ作曲のヨーチン(揚琴)のための《春の鳥来たり》よりも1年早い。伝統楽器のための創作の分野でもゴンチグソムラーのフロンティア精神ぶりが目立つ。
そもそもモスクワ音楽院留学前はイルクーツクで獣医の勉強をしながら音楽(アコーディオンなど)を学び、現地の放送局の楽団に入るまでになり、帰国後は獣医として働きながら、音楽の独習書を執筆、しかもその中身はモンゴルの楽器でどうすれば西洋のドレミの音階が演奏できるかまで詳しく書かれているという、西洋音楽をまさにモンゴルで普及させる意気込みに満ちています。
ゴンチグソムラーはクラシック音楽の啓蒙活動にも力を入れていました。モンゴル国営放送の芸術部門の責任者となり、ラジオのクラシック音楽番組を自ら担当し、選曲、解説を行っていました。この際、放送原稿がなかったようで、作曲家や作品について自分が書きためていたノート(現場ではゴンチグソムラー先生の「黒いノート」と呼ばれていたとか)をいつも持ち込んで、それを基にしゃべっていたそうです。当時のモンゴルのラジオ放送界では放送原稿なしで専門家が自分でペラペラしゃべるのは普通だったそうですが。このノートを見れば、どのような音楽が社会主義時代のラジオで紹介されたのか分かるところなのですが、この「黒いノート」は現在行方不明なのだとか。ところで、どういった経緯でこのゴンチグソムラーの国営放送の人事が差配されたのか、単に他に西洋音楽について彼ほど詳しい人材がいなかったのか、それともやはり戦前からの彼のフロンティア精神のなせる業なのか。
作曲家論をまとめるのにちょっと一筋縄ではいかない感じがします。
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