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社会主義時代のモンゴル国に来た外国人音楽家

社会主義時代のモンゴル国に来た外国人音楽家について質問されたので、ちょっと思い出しながら調べたのですが、やはりというか、あまり日本でも有名なクラシック音楽家というのはモンゴル国には来ていなかった模様。ソ連、社会主義圏に留学経験のある音楽家が多いのとは対照的です。
 まず、いわゆる「お雇い外国人」のような音楽の指導者がソ連から派遣されていて、その延べ人数は1950年代から80年代の間だけでもで約160人ほどに上るらしいです。彼らは音楽学校、歌劇場、軍楽隊などに配置されていました。彼らのソ連での経歴などが一部の有名人(モンゴルでの貢献度が高いと言う意味で、世界的には全く無名)を除き、記録が探しづらいのが困りものです。今のところ一般に手に入るのは、一部の人の断片的な回想ぐらいでしょうか。西洋音楽導入黎明期を支えた、スミルノフ、クレシコ、リャリンというような人々についてはさすがに研究などが出ています。モンゴルでは箏奏者がほぼ途絶えてしまったと言うので、北朝鮮からカヤグムの奏者を招聘して音楽学校で教えたということまでありました。なお1990年代初頭にそれらの教師陣が一斉に帰国したため、市場経済移行のショック療法に伴う補助金の削減と相俟って各種の公演のレベルが著しく低下したと言われています。なお、その後、作曲界の重鎮ロブサンシャラフによると、自分たちでスポンサー探しで企業を回りをして大変だったそうです。
 次にモンゴルで公演をした外国人音楽家ですが、これもまとまった記録などはあまりありません。音楽学者の重鎮エネビシの「ソ連の音楽家の影響」によると、日本でも知られているような団体の公演といえは、1942年とその後1960年代以降もう1度公演を行ったソ連国立モイセーエフ民族歌舞団(モイセーエフ・バレエ団)と、1960~1970年代に赤軍合唱団の中でも最も有名なアレキサンドロフ・アンサンブルが来モしたことぐらいでしょうか。あとは、1943年にブリヤート国立劇場のオーケストラが指導と演奏(この時の演目はブリヤートの劇場で作られたもののほかに、アサフィエフのバレエ《バフチサライの泉》があったようだ)に来た、とか、ロシア連邦のシベリア、タジキスタン、モルダビア、ハンガリーの歌舞団が来たという記録があります。個人では、知る人ぞ知るところで、グルジア出身のアゼルバイジャン人指揮者ニヤジ(カヒッゼなどと共にメロディヤレーベルに録音が残っています。叔父はアゼルバイジャンの作曲家ガジベコフ)が国立歌劇場と国立フィルハーモニーでそれぞれ指揮したりしています。それからソ連のオペラ歌手が結構モンゴルにも演奏旅行に来たり、モンゴル国立歌劇場に出演したはずなのですが、個々の名前が調べられません・・・。これ以上は刊行された資料ではなく、実際に劇場や学校の記録、当時の新聞記事をあたってみないと分かりません。最近、ソロンゾンボルドという音楽学者・作曲家による『モンゴルの新聞で発表された音楽関係記事』という資料集が出ました(荒井さんありがとうございます!)が、短いニュース記事が省かれているような感じだったり、ムルドルジの「モンゴルの歌の旋律」など結構重要な小論も抜けていたりして・・・、で、よく見たら全記事ではなく選集である上に、利用した資料は国立図書館に所蔵の物らしいです。国立図書館の雑誌、新聞は巻号そのものの抜けが多い上に、利用者のマナーが悪く、なんと勝手に必要な記事を切り取って持ち去られたりと非常に保存状態が悪い。旧人民革命党図書館なら比較的保存状態の良い新聞雑誌記事が閲覧できるので(それでも戦前の雑誌、新聞は結構抜けが多い)、新聞記事などを基に研究したい場合はそちらで自分で調べるしかないのでしょうね・・・。
 ところで、中国からも音楽家は来ていると思うのですが(元から住んでいる漢人もいるし、派遣されてきた建設労働者は多かった)、中ソ対立で帰国したり、対中感情が悪いせいで、記録が表に出てきていないようです。
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踊るモンゴル歌謡

 『踊る昭和歌謡』という本に、大衆音楽と芸術音楽を区分する意識の中には「踊る/じっと鑑賞する」ところにあると説明可能な部分があると書いてあった。また、踊りというものが性的な情動を連想させることがある程度普遍的に見られるとも。
 モンゴル国の大衆音楽を考えるとき、ボールルームダンスは社会主義時代に広く普及していて、田舎でも公民館でそういう機会がもたれることは多かった。首都には大きな職場、例えばホテルや工場などにアマチュア楽団が結成され、ダンス音楽が主要なレパートリーだった。またS.ゴンチグソムラー作曲の《ウランバートルの夕べ》のようなワルツ調の歌謡曲も多く生まれたし、老舗国立ジャズバンド「バヤン・モンゴル」も民謡をダンス音楽にアレンジして親しまれた。
 踊るリズムをメインに据えることで、モンゴル国大衆歌謡の時代による流行の傾向も見通しがよくなるだろう。ただ、公の娯楽としてのボールルームダンスは近代都市文化として行政からも大衆からも歓迎され(当時の高齢者世代や保守的な価値観の人々の中によく思わない人がいたかどうかは調査の必要があるが)ていたことを考えると、不健全娯楽とされて批判されたり廃れたもの(芸能関係も全て国家予算なので、あらかじめ完全にふるいにかけられていたとも考えられるが)もあったのかは気になる。
 それから「踊る」大衆音楽以外にモンゴルでは、「みんなで歌う」という参加の仕方がある。宴会だけでなく旅行中のミクロ(ワゴン車の定員を違法に増やした小型乗り合いバス)の中で、みんな音程もリズムもバッラバラで大声で歌いまくるとか。これは宴会でのオルティンドーの唱和の風習に根っこがあると考えられるが、社会主義時代の教育の中でも官製のピオネール(社会主義国の官製ボーイスカウト、党員の子息が多かったかも)歌、学生歌などを唱和する習慣がついていたからというのもあるだろう。何にせよ歌を唱和することが、上からも下からもアイデンティティ共有のツールには変わりないわけで。
 この話に分け入ってしまうと、もう上であげてしまっているが、国歌や団体歌はどういう扱いなのか、娯楽?みたいなことになってしまう。ジャンルの区分け自体にこだわりたいわけでもないのでこの問題は別に考えたい。

踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書 454)踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書 454)
(2015/02/06)
輪島 裕介

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B.F.スミルノーフ著『モンゴル民族の音楽』

B.F.スミルノーフ著『モンゴル民族の音楽』(Смирнов, Б.Ф. Музыка народной Монголии, Москва, 1975.)
目次
1、モンゴル人民の生まれた歴史
2、古代のテクストにない声を上げた歌と呪文
3、音楽の音律組織 モンゴル民謡
4、特殊な音楽の音律とハーモニー
5、民俗楽器と器楽
6、新しい生活の歌
7、語り手とモンゴルの劇場が音楽文化の中でどのように発生したか、どのように音楽文化を生んだか
8、創作歌曲
9、発達した伝統音楽のフォークロアと、創造的なモンゴルの作曲家
10、芸術の変化
11、利用と発展 色々な方法・表情豊かなモンゴル民俗音楽と作曲家の作品
12、スミルノーフの思い出

J.エネビシ著『現代モンゴル音楽史Ⅰ』

J.エネビシ『現代モンゴル音楽史Ⅰ』、文化芸術大学文化学部、ウランバートル、2011年(Ж.Энэбиш, Орчин цагийн монголын хөгжмийн түүх, Улаанбаатар, 2011. )

著者:J.エネビシ
 芸術学博士、音楽学者、評論家。この20年間に、伝統音楽および現代音楽の歴史、理論の諸問題に関して、『音楽の伝統の革新』1991年、『モンゴル人の歴史文化事典』共著2004年、『チンギス・ハーン辞典』共著2006年、『遊牧民の音楽概念における潜在意識』共著2006年、『モンゴル音楽の口承と記譜の相互関係』2007年、『芸能評論、すなわち精霊を喚起するイラクサなり』2007年、『20世紀モンゴル音楽芸術評論の思想概観』2008年、『20世紀モンゴル音楽研究論文選集』監修2008年、『音楽学(科学アカデミー叢書22)』共著2010年、『文化芸術研究』共著2010年など、単著および共著による本を出し、30以上の修士、博士論文を指導し、無形文化財保護を主題とした10本以上のドキュメンタリー番組の制作に携わった。馬頭琴、オルティン・ドー、ホーミー、民族楽器オーケストラに関する大統領令の発案の発起人の一人を務めた。彼の研究はロシア、中国、韓国、アメリカでも出版されている。現在遊牧文明国際研究所研究員。

目次
前書き
推薦者前書き
序文
第1部
人民革命期における音楽作品(1921-1940)
第1章 専門音楽教育の開始、作品、音楽教育機関の発足
第2章 革命歌の旋律と歌詞の伝統、革新
第3章 モンゴル最初の作曲家、音楽学者でありプロフェッショナル音楽芸術の礎を築いたM.ドガルジャブ
第2部
社会主義建設期における音楽作品(1941-1971)
第1章 大衆歌
第2章 大規模な音楽作品
第3章 声楽作品
第4章 独奏、室内楽作品
第5章 吹奏楽、軽音楽
第6章 劇音楽、映画音楽
第7章 音楽批評

結語
参考文献

序文 20世紀のモンゴル国の伝統音楽と現代音楽のイントネーション、リズム、対位法の書法の対立
 現代モンゴル国の作曲家達は、よく知られた民謡の旋律や、語り物の音楽、伝統楽器の旋律を引用したり、編曲したり、変容させるというより、西洋音楽の形式を全て習得し、その基礎の上に民族の作曲家の流派、国民音楽を形作ってきた。
 彼らはその国民音楽を形成するに当たり、一方でソ連の作曲界の社会主義リアリズムの豊富な経験、あるいは西洋音楽の大作曲家による一般的な技法、つまり対位法や書法に学び、他方では5音音階の旋法である単旋律の伝統的旋律や遊牧民独特の即興性、その場にある物事を表現する民族音楽の独自性に立脚していると言えることが、これらに関する我が国の研究によって明らかにされている。
 この序論ではモンゴルの作曲家達が遊牧民の口承の伝統的音楽にどの程度向き合い、それを新時代の音楽作品にどの程度利用されてきたのか、その技法について民族の音楽の伝統と革新、継承の問題として私自身の考察を述べてみよう。
 作曲家で指揮者でもあったJ.チョローン(国家賞受賞、人民芸術家/1928-1996)は彼自身モンゴル初のヴァイオリン奏者の一人(なんと独学で修めた)として1949年、オーケストラとの協奏的作品《ヴァイオリン二重奏曲》を、1951年には同じく協奏的作品《二つの民謡主題による変奏的小品》を書いた。これらはモンゴルにおけるヴァイオリンのための作品の嚆矢であった。
 チョローンは前者の作品には《ゴーリンゴー》、《バータルツォグトの姻族》という2つの民謡の旋律を、後者には《丸い蹄の褐色馬》、《二心》という2つの民謡の旋律をホモフォニー(和声音楽)の技法でアレンジした。言い換えれば、彼は上記の2つの作品で、緩急2種の民謡旋律を主題として利用したのである。
 ここで《二つの民謡主題による変奏的小品》について若干の楽曲分析を試みる。作曲者は作品の形式として変奏曲を選んで、ヴァイオリンとオーケストラと言う編成に合わせてオーケストレーションを施した。これは当時としては大変な冒険であった。
 なぜなら、まず第一に当時わが国の音楽界に西洋のオーケストラ、中でも西洋の弦楽器が入って来てまだ間もなかったこと。第二に、その演奏技法の伝統は全く確立していなかったこと。第三にそのような楽器のためにモンゴル人によって書かれた作品は全く存在しなかったこと。第四にヴァイオリンそのものの高い表現力、豊かなテクニックを引き出すために、楽器に対する研究、演奏法の習得をこれからしなければならなかったことによる。
 チョローンは非常に短期間でヴァイオリンを習得し、ヨーロッパおよびソ連の作品を演奏できるようになった。このことは《変奏的小品》を作曲するうえでの基礎となった。
 《変奏的小品》の形式的普遍性、律動の独自性、優れた管弦楽法、国民性に寄り添った音使い、これらすべてを、この曲の楽曲構成、拍子、調性に対する分析により明らかにすることができる。
 この曲の構成は、《丸い蹄の褐色馬》の主題をA、《二心》の主題をB、作曲者自身によるブリッジ主題をCとすると、A(Andante),A1(Piu mosso),C(ここまでD-dur),B(Allegro),B1(Meno mosso Accelerando),B2, B3(Allegro)(ここまでA-moll),A1(Andante),C(ここまでD-dur)となる。
 上記分析からすると、モンゴル人がヴァイオリンと言う楽器の表現力の豊かな可能性をモンゴル的な旋律を用いていかに引き出すことができるかと言う課題に対し、チョローンがうまく解答を導き出していることがわかる。他方、5音音階の理論というモンゴル音楽の表現語法の基礎を変奏曲という形式を借りて豊かにしている。こうして独奏、管弦楽の相互関係、各変奏の受け渡し、展開、管弦楽法、調性関係、ヴァイオリンの表現力などの多くの重要な問題に対し、理論の裏打ちを忘れず、民族の独自性を保ちつつ解答を与えている。最も重要なのは、人口に膾炙した民謡の旋律をモンゴル人の耳なじみのある形にとどまらない楽器法やホモフォニー形式により高い芸術性を担保し、聴衆の美的共感を呼ぶ国民的作品となしえていることである。ここに彼の革新者としての心があるのである。
 我が国の作曲家たちが新時代の作品を書くに当たり、民間に伝承されているオルティン・ドー、ボギン・ドー等の民謡を引用するだけでなく、革命歌の旋律も利用した例がいくつもある。そのような作品の一例が作曲家Ts.ナムスライジャブ(人民芸術家、国家賞受賞/1927-1987)による管弦楽作品《革命の英雄的行進曲》である。ナムスライジャブはこの作品に《キャフタ砦》、《幾年》、《薄黄色の太陽》などの有名な革命歌の旋律を利用し、行進曲の新しい形式を作り上げた。
 モンゴル国社会の生活を音楽により高らかに歌い上げた次の段階の大規模作品が《わが祖国》と題されたモンゴル初の交響曲である。交響曲《わが祖国》は人民芸術家で国家賞を2度にわたり受賞したL.ムルドルジ(1919-1996)により1957年にモスクワ音楽院作曲科の卒業作品として書かれた。この交響曲は4楽章制で、楽章ごとに速度、強弱、展開が、古典的交響曲の形式にのっとって構成されている。《わが祖国》はモンゴル人民の独立、自由のための闘争、勝利、栄光、苦悩を1つにまとめ上げた新時代の音楽史の金字塔であると言えるだろう。

モンゴル国初の近代劇場「緑のドーム」

 現在スフバートル広場に面した東側にオレンジ色の立派な建物があります。モンゴル国立歌劇場です。毎週末モンゴル人の作品や名作オペラ、バレエが上演される、モンゴル国のハイカルチャーの中心です。
 この建物が実は第二次世界大戦でソ連軍により捕虜となった日本兵がモンゴルにまで連れてこられて、その強制労働の一環として建設に携わった、と言う話はあまりにも有名です。
 しかし、ではこの建物は誰が設計したのかというと、実は捕虜を配分したソ連ではありません。なんと設計もドイツ人の捕虜で、ゲルハルト・コゼルという人物でした。
 この劇場のできる前、ほど近い場所に、人民娯楽場・通称「緑のドーム」という初代国立劇場がありました。モンゴルの伝統的な住居「ゲル」を思わせる建物で、大きな緑色のドーム型の屋根を持つ、独特な姿の劇場でした。
 この劇場もモンゴル人やロシア人の設計ではありませんでした。1927年に杮落としだったのですが、設計はなんとハンガリー人で、ヨーゼフ・ゲリタという人の手によるものでした。
 内装こそロシア人クリモフ・キポメラツェフとモンゴル人画家ソヨルトイ(しかし彼も内モンゴル出身で、なんと体育教師でもあった)でしたが、建設作業の中心となったのは中国人の建築業者だったという、なんとも国際色豊かな建造物と言えましょう。
 ナツァグドルジの戯曲をオペラ化した《悲しみの三つの丘》の初演もこの劇場で行われたのでした。またモンゴル国で初めてオーケストラが鳴り響いたのもここです。
 民族性と近代性の融合が試みられたこの劇場は1949年に火災で失われ、モンゴル国の舞台芸術の近代化は現在の歌劇場によって受け継がれることになります。
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プロフィール

Yapony Bagsh

Author:Yapony Bagsh
Welcome to the world of Mongolian music! I've studied Mongolian language and musical culture in Ulaanbaatar(the capital of Mongolia) for one year. I hope you enjoy various music of Mongolic peoples.

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