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女王ニルジドマと『モンゴルの18の歌と詩』

Dix-huit chants et poèmes mongols
『モンゴルの18の歌と詩』
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA2688048X
だいぶ前にこの本を、国立民族学博物館で見つけました。トルグート(カルムイクの主要構成部族でオイラート系ですが、このトルグートはイリに帰還したウバシ・ハーンの子孫)のパリに留学していた女王ニルジドマ(1907-1983) の演唱、Humbert-Sauvageotによる採譜、翻訳、Paul Geuthnerによる解説。ニルジドマは北京、日本で語学を学びベルギーで医学を修めました。
http://gurduumn.blogspot.jp/2013/04/blog-post_6560.html
原書のフランス語が読めないのでモンゴルの音楽学者エルデネチメグ氏のblogを参照すると、パリではアジアの芸術や芸能を紹介するサークルに参加して、自ら歌を歌ったそうです。ちなみにエルデネチメグ氏は、ありがたいことに上記の本のトルグート語の歌詞をハルハ方言に訳してくれています。
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モンゴル音楽に関する博士/修士論文(Thesises and dissertations on Mongolian music)

 モンゴルの音楽に関する英語圏(英米)の論文が2000年代に入って増えてきている。
その嚆矢は
Pegg, Carole.(2001)”Mongolian Music, Dance, & Oral Narrative”, University of Washington Press
で、1980年代後半の冷戦の緊張緩和、続く1990年代のモンゴル国の民主化が現地調査を可能にし、ペッグは1987年から内モンゴルで、1989年からモンゴル国で通訳付き(ちなみに、私はこの当時通訳をしたうちの一人に大学でモンゴル語を習ったことがある)とはいえ比較的長期間かつ広い範囲でのフィールドワークを行い、また現地出版の文献の収集に努めた。結果、最初の本格的なモンゴルの音楽民族誌を著すことができた。
 モンゴルではなく隣のトゥバ共和国に関するものだが
Levin, Theodore/Suzukei, Valentina. Where Rivers and Mountains Sing-Sound, Music, and Nomadism in Tuva and Beyond. Bloomington and Indianapolis:Indiana University Press, 2006.
があり、実は少しモンゴルにも触れられている。
 この2つは、この地域の音楽書として欧米で特によく知られている。ペッグの書はモンゴル国では参照されることはあまりないし、レヴィンの書がトゥバでどう評価されているのかはわからない。この2つは、遊牧民の音楽文化の伝統の再構築とその現代における復権に焦点が充てられている。大雑把に言ってしまうとペッグにおいては、宴の歌などにみられる人間同士の、あるいは人と自然との対話とアイデンティティの問題であり、レヴィンにおいては自然現象の物真似(サウンド・ミメーシスと定義づけされている)としての音文化である。自然との対話、という点で2つの論は共通しており、「遊牧生活の伝統」に関する本質主義的な語りが特徴である。
 この2つとは対照的なのが
Marsh, Peter K. The Horse-head Fiddle And The Cosmopolitan Reimagination Of Tradition in Mongolia (Current Research in Ethnomusicology). New York:Routledge, 2009.
である。こちらは馬頭琴を国民文化論の視点から扱っている。20世紀に馬頭琴がモンゴル地域の様々なヴァリアントを持つポピュラーな楽器から、国家の象徴としての位置を獲得するに至るまでのプロセスを描いた。しかし実はこの論文も、最後の章では地方に残る伝統的な文化を背景にした地方の劇場のレパートリー開拓を称賛して終わっている。
 以上3つは出版されているが、特にペッグの後に続くものとしてモンゴル音楽に関しては、修士論文、博士論文がいくつか書かれている。オルティン・ドーに焦点をあてたものが一番多く、例えば修士論文
Carrizo, Liliana.,URTIIN DUU: PERFORMING MUSICAL LANDSCAPES AND THE MONGOLIAN NATION, University of Illinois, 2010.
ではオルティン・ドーの果たす役割、特にアイデンティティの表象としてのこの種の歌謡がテーマである。
 オルティン・ドーが現代文化の中で歌われる「場」を問題にしたものもあり、同じく修士論文の
Giron, Gabrielle., Norovbanzad's Legacy: Contemporary Concert Long Song in Mongolia, Master thesis, The Florida State University, 2007
と博士論文の
Chao, David., Urtiin Duu: The Mongolian Long Song in Mongolia and China, Proquest, Umi Dissertation Publishing, 2010.
が該当する。モンゴル国を代表する歌手個人を主題にした前者に対して、後者ではモンゴル国と内モンゴルの都市と地方で、オルティン・ドーが現在どのような歌われる機会があるのか、詳細な描写がなされる。
博士論文の
Sunmin Yoon, CHASING THE SINGERS:THE TRANSITION OF LONG-SONG (URTYN DUU) IN POST-SOCIALIST MONGOLIA, University of Maryland, 2011.
は複数の歌手へのインタビューやオルティン・ドーのレパートリーの扱われ方などから、オルティン・ドーが社会主義崩壊後の国家のシンボルであるとともに前近代との連続性を示す文化遺産として機能していることを明らかにしており、馬頭琴におけるMarshと同じく、国民文化論の枠組みで語られている。
 修士論文の
Logan, Erica Marin, "Moving Melodies: Contemporary Music Culture of Mongolian Nomads and Opportunities for Contextualization", Ethnomusicology Masters Thesis,2008.
もポスト社会主義の音楽活動を扱っているものの、遊牧民的な音楽活動や音楽を行うこと自体が遊牧民のアイデンティティに関わる、などといった本質主義的な枠組みを出ておらず、さらにこの研究自体がキリスト教布教をモンゴル国で円滑に進める目的で行われていることに注意が必要である。
 伝統音楽以外を扱ったものではモンゴル国内でもほとんど研究されていない映画音楽を扱った
Rees, Lucy Miriam., Mongolian film music during the Socialist era (1921-1990) and its aftermath. PhD thesis, University of Leeds. 2011.
が目を引く。映画音楽や歌謡曲を研究することは、アカデミックな訓練を受けた高名な作曲家が大衆歌からオペラまで何でもこなしたモンゴル国においては、この国の音楽実践全体を明らかにするうえで特に重要である。

S.A.コンドラチェフ『1816-1970年の生涯と学術活動:モンゴルとロシアで』

S.A.コンドラチェフ『1816-1970年の生涯と学術活動:モンゴルとロシアで』(Кульганек,И.В./Жуков,В. Жизнь и научная деятельность С.А.Кондратьева (1816-1970): в Монголии и в России. Санкт-Петербург, 2006.)

・序言 p.5
・20世紀初頭におけるロシアとモンゴルの学問的関係と文化接触 p.10
・ロシアとモンゴルの学問的共同事業の文脈におけるコンドラチェフの生涯と遺産 p.21
・モンゴル滞在時代のコンドラチェフの生活と活動 p.37
・モンゴル滞在時代のコンドラチェフの著作書誌情報 p.61
「コンドラチェフの書簡と日記」
・「私はアジアに行かねばならぬ」1922年P.K.コズロフへの手紙 p.64
・1923~1924年の日記 p.69
・1925年の日記 p.160
・ハンガイ地方へのフィールドワーク p.220
・1928年の日記 p.243
・生涯の思想(1949年の日記)
「コンドラチェフの詩と散文」
・人生の軌跡(1939年の詩) p.320
・風の草原 p.340

・人名表 p.384
・地名表 p.392
・略語一覧

『中国音楽文物大系Ⅱ 内蒙古巻』

段泽兴主编『中国音乐文物大系 II 内蒙古卷』、大象出版社、2007年。

オボーとは何か

オボーは音楽と直接は関係ないが、オボー祭などで音楽が伴うので、オボーというものについて少し書く。
 そもそもオボーとは何だろうか。一般的には複数の石でできた小さな塚を指す。小山や丘の上、領地的境界や道端にあるともされる。石塚のそば、あるいは上に木の枝が立てられ、そこに細長い布切れが結わえられている。モンゴル国ではオボーに対し、オボーの周りを足元の石塚の石を真ん中に投げ積みながら3回回るというのが正しい態度とされる。またはミルクをかけて捧げる。最近では道端のオボーに向けて、車で通りかかるとクラクションを鳴らして敬意を表する、という現象も見られる。
 渡邊日日(2010)『社会の探究としての民族誌』、三元社によれば、ブリヤートには石塚も木の枝もなくそれとは分からないが、それがオボーと知っている人は硬貨やお菓子などの供え物を投げる(しかしそこにはオボーらしきものは何もない)というタイプのオボーもあるという。
 歴史的な成立経緯はよく分からない。シャーマニズムと関わりが深い、と一般的に言われているが、確たる証拠はない。原始宗教に由来し、仏教伝播の際にも生き残ったとも言われる。一方、後藤富男(1956)「モンゴル族に於けるオボの崇拝: その文化に於ける諸機能 」(『季刊 民族学研究20(1・2)』、日本民族学会、pp.47-71)によれば、oboүaという語がHua-i-i-yü(華夷訳語)以前の文献ではほとんど見つからないため、オボーは明代のチベット仏教伝播以降のものだと言う。探検家のP.S.パラスは同様の者はシベリアのツングース系民族やチベットにもある神の住居としている。
 とにかく、オボーをめぐる仏教とシャーマニズムの議論は複雑であり、Bawden, Charles R., “Two Mongol Texts Concerning Obo-Worship,” Confronting the Supernatural: Mongolian Traditional Ways and Means, Bawden, Charles R., Wiesbaden: Harrassowitz, 1994, pp. 1-19,によれば18世紀後半のモンゴルのチベット仏教高僧メルゲン・ディヤンチは「オボー設置の手引き書」と「オボー崇拝の儀式次第」を書いている。彼は、シャーマニズム由来の血なまぐさい生贄を仏教僧の立場から嫌いながら、民衆に支持されるオボーの儀式そのものに対してはそれほど否定的ではなかった。ただ学問僧らしく、依るべき聖典なしに祈祷書を記すことには抵抗があったのみのようである。祈祷書ではオボーの機能=土地神の住処、道しるべ、大きさ、装飾は仏教のやり方に沿ってオボー祭祀の方法の明確化の必要性があったが、それまで依るべき古文書がなかったのでメルゲン・ディヤンチはこれを書いたという。オボーを立てるための地鎮祭から定期的な祭祀まで、チベット仏教的な要素を入れて仏教僧が参加して行えるよう詳細に規定している。もしオボーが仏教と関係なく生まれたとすれば、18世紀後半、非常に巧妙にモンゴル人の自然崇拝を仏教に取り込んだということになる。
 現在のオボーの意味は、モンゴル系諸民族の民族性を主張する語りの中に取り込まれており、ますます複雑な様相を呈している。
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Yapony Bagsh

Author:Yapony Bagsh
Welcome to the world of Mongolian music! I've studied Mongolian language and musical culture in Ulaanbaatar(the capital of Mongolia) for one year. I hope you enjoy various music of Mongolic peoples.

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