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ダムディンスレンと《悲しみの三つの丘》

「モンゴルオペラの父」B.ダムディンスレン(モンゴルを代表する文学者だったTs.ダムディンスレンとは関係なし)は、ソ連の音楽家スミルノフ(イギリスに亡命したD.スミルノフとは関係なし)とモンゴル初のオペラで現在も頻繁に国立歌劇場で上演される《悲しみの三つの丘》を共作し、作曲家ムルドルジとモンゴル国歌も共作したモンゴルでは知らぬものはいない作曲家だが、1950年代、レニングラード音楽院に留学中、3年生に進級したところで、現地の警備員を平手打ちにしてしまい(酒に酔っていたのだろうか)、刑務所に収監されたことがあるらしい。すでに国から表彰された作曲家だったために、数ヶ月懲役の後、家族や音楽家仲間の嘆願で釈放、左遷のような形で一年間バヤンウルギー県立劇場に派遣されたらしい。ウランバートルに戻ってきてからは、国立劇場で芸術監督をした後、勉強のし直しのために北京音楽院に留学したという。なお、今度の留学は家族揃って。着いてから語学のクラスに入り父娘机を並べて中国語の授業を受けたという。
1942年に完成したとされるオペラ《悲しみの三つの丘》だが、1949年に起こった初代国立劇場の火災で楽譜が焼けてしまい、初稿を見て、ダムディンスレンとスミルノフがどの部分をどちらが書いたとかの研究は不可能になっている。ちなみに、現在上演されているのは、楽譜が焼けてしまったので、ダムディンスレンが記憶を元に再作曲したもの(1951年に現在の歌劇場の建物が完成し、再演された)を、さらに1976年に改訂したもの。そのため現在の版は、ほぼダムディンスレン単独の作品と言ってよい。その証拠に1956年に、《悲しみの三つの丘》を観たスミルノフは「以前に一緒に書いたオペラが何でこんなに大きく変わってしまったのだ?とても面白くなっている。新しくやり直すわけでもあったのか?」と言っていたという。そして、スミルノフは「もう少し手直ししたいところはあるけれども」と付け加えると、ダムディンスレンは一緒に直してもよいですよ、と答えたと言い、スミルノフも乗り気だったが結局叶わなかった。現在このオペラの作曲者のところに、スミルノフの名前が先に書いてあるのは、彼の指導によってモンゴル初のオペラが生まれたことへの尊敬の念を込める意味らしいが、1979年に人民革命党の政治局がそういう並びに登録してしまったかららしい。
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モンゴル国の大規模声楽作品について

 モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史ほか訳『モンゴル史(全2巻)』(恒文社、1988年)の第2巻p.246に以下のような記述がある。「モンゴルの作曲家による交響楽の作品には(中略)そしてD.ロブサンシャラブの《スフバートル讃歌》《わが祖国よ永遠なれ》という讃歌(マグトー)などの大形式の音楽作品があることを記さねばならない」。この中の「マグトー」という言葉を訳者は「讃歌」と訳している。これはモンゴル語の「マグタハ=ほめる・称える」やモンゴルの伝統的な口承文芸の一形式「マグタール=讃歌・讃詞」を念頭に置いた訳であろう。しかし「マグトー」は実は「カンタータ」の訳語として設定されたモンゴル語である。訳者たちの名誉のために言っておくと、この本はモンゴル語から直接日本語に訳されており、その訳は素晴らしく、多くの術語が定訳として参照されるべきものである。ただ、訳者の中には音楽の専門家はおらず、J.バドラーによる『音楽用語』(Ж.Бадраа, Хөгжмийн нэр томьёо, Улаанбаатар, 1956.)は日本には出版当時蔵書がなかったため、この音楽用語を知る者は日本にいなかっただろうし、モンゴル人も一部の専門家しか知らないだろう。
 とまれ、モンゴル国のカンタータ作品についてである。例を挙げるならば、L.ムルドルジの児童合唱のためのカンタータ《祖国》(1972)、D.ロブサンシャラブの《祖国よ永遠なれ》(1961)、《スフバートル将軍》(1963)、《不滅のレーニン》(1970)、《金のソヨンボの歌》(1974)、E.チョイドグの《祖国》、《党の讃歌》、Z.ハンガルの《永遠の河》(1985)、B.シャラフのカンタータ《おだやかなこの世の太陽》(1981)、《わが祖国》(1987)、《人間》(1991)、オラトリオ《チンギス・ハーンよ永遠なれ》(2005)と、祖国礼賛、体制礼賛の作品が多い。
 アンダーソンが『想像の共同体』で述べたように、歌の唱和(ユニゾナンス)は上からの国民化だけではない、その体験を共有するという意味で下からの共同体の想像が行われる現象である。またモンゴルには伝統的に宴の席の初めと終わりに歌を皆で唱和する文化があった。そのため社会主義モンゴルにおいて合唱は非常に重要な国民化のツールであった。同時に祝い事の席や、権力者に対し祝詞や讃歌を吟じる伝統も持っていた。とすれば、これらの大規模声楽作品はモニュメンタルな音楽作品として政治的にも文化的にも公認されうるものであった。
 中でもこういった作品に多く携わった作曲家にロブサンシャラブがいる。彼は国立劇場合唱団の団員としてプロの音楽家のキャリアを始め、モスクワ音楽院にてさらに合唱音楽の研鑽を積んだ。彼はモンゴル国におけるアカペラ合唱の第1人者でもあった。そしてその成果として人民革命40周年記念の《祖国よ永遠なれ》(1961)は書かれた。作曲者にとっては、勉強の成果を世に問う絶好の機会であったろう。当時この種の体制翼賛作品なら容易に演奏の予算が下りた。同時にスターリン批判とチョイバルサン批判、その後の「知識人の迷妄」事件も落ち着き、親ソ派ツェデンバルが政権を握ってはいたが、モンゴルの国家としての独自性を求める声も少なからず聞こえた時期の作品らしく、モンゴルの国家のモニュメンタルな作品たる要素が詰め込まれている。
 まず、オーケストラは1956年から政治局承認を得て予算化され進められてきた民族楽器改良の成果たる民族楽器大オーケストラが用いられた。これはB.リンチェンら知識人が発言していた歴史資料に見られるモンゴルの古い楽器の復興を、1956年にモスクワ音楽院から戻ったばかりの作曲家L.ムルドルジらが中心となって実現させたものであった。この編成はおそらくムルドルジが西洋のオーケストラやソ連のバラライカを中心とした民族オーケストラを参考に弦楽器や管楽器の音域、バランスを考え、元朝の宮廷楽団に関する資料を参照にした打楽器で民族的色彩がより強められたものだった。この民族楽器改良のアイデア自体は、1940年代のブリヤートの民族オーケストラやそれに触れたチョイバルサンからの提案にすでに原型を見出すことができる。
 次に合唱団の中にも民謡オルティン・ドーの歌手を配置し、声の面でも強く民族性が打ち出されている。このような考えは、この作品より前にロブサンシャラブが作曲家として出世作となったホブド県劇場でのアカペラ合唱作品《アルタイ讃詞》で合唱にホーミー歌手を加えて高い評価を得たことから、その路線を推し進めた結果である。
 そして作品は祖国の美しさ、尊さを歌い、最後は1921年革命時の革命歌《キャフタ砦》の大合唱でしめくくられる。党幹部を納得させられる作品構成となっている。
 このような作品の系譜は民主化後にも連なっている。B.シャラブは1980年代に交響曲第2番を合唱付きの大規模な作品として完成させて、ソ連の現代音楽祭でも演奏の期間を得ているが、2005年、2003年に作曲したオペラ《チンギス・ハーン》の素材を用いて30分ほどのオラトリオ《チンギスハーンよ永遠なれ》を発表した。
 これらの作品はチャイコフスキーの《モスクワ》などから、プロコフィエフの《アレクサンドル・ネフスキー》、そしてショスタコーヴィチの《森の歌》へと連なる伝統をモンゴルに持ち込んだものであると考えられる。過去の建国英雄を顕彰したり、国土の賛美に民族性を表出させるやり方を導入することで国民意識を高揚させるテーマ性はまさにそうであろう。

ストラヴィンスキーとモンゴル音楽

 ストラヴィンスキーがモンゴル人の影響を受けていると言った類の話ではなく(春の祭典は確かに中央アジア(シベリア?)先住民に対するロシア的オリエンタリズムのなせる産物だが)、ストラヴィンスキー作品のモンゴル国での受容や、モンゴル人の作品への影響の話。メモ程度なのはご容赦願いたい。
 
 モンゴル国で本格的にストラヴィンスキーが受容されたのは90年代に入ってから、国立歌劇場でバレエ《春の祭典》が上演されてからであろう。それ以前は、おそらく、社会主義時代モンゴル国においてストラヴィンスキー作品の多くが前衛的過ぎて受け入れられる余地がなかった、衛星国化していたせいでソ連国内で否定的価値判断のなされたものは入ってきにくかった、単にモンゴル国のプロ奏者、特にオーケストラが技術的に未熟で実演する素地がほとんどなかった、などが考えられる。作曲家随一の碩学だったゴンチグソムラーや70年代後半からの留学組などはよく知っていたと思われるが・・・・。
 
 その70年代後半に留学した作曲家の1人にB.シャラフがいる。彼はオルティン・ドーを大規模管弦楽曲の中に生のまま取り入れた《交響曲第1番》の初演を留学より帰国後モンゴルで行う。合唱曲の中にオルティン・ドー歌手を参加させる取り組みはD.ロブサンシャラフがカンタータ《堅固なれ、わが祖国》などで実験済みであった(ちなみにこの作品は民族楽器オーケストラと、ホーミーとオルティン・ドーと混声合唱による大編成で、祝典的な楽句と民謡的な旋律、独立戦争時の革命歌を上手く織り込み、モンゴルの国家としての記念碑的作品として成功を収めている)。しかし大規模管弦楽曲、しかも西洋的形式感の強い交響曲の中に取り込むというのは初めての試みであった。この後、シャラフはオルティン・ドーのその長く引き伸ばされた浮遊的なリズム感や装飾音やグリッサンド・ポルタメントの多用されるメリスマを積極的にシリアスなコンサート用作品、オペラ、バレエ音楽に取り入れていく。前置きが長くなったが、その書法を確立させていく中で、「民族的なもの」をオーケストラ音楽に親和させる触媒として参照したのがストラヴィンスキーであった。例えばモンゴル国で発売されたCDに収録されている管弦楽のための幻想曲《広大なる世界》(興味深いことにこの曲の演奏者は東フィルのようである)の中間部分、チベット仏教楽器のギャリン(チャルメラのような楽器)の引き伸ばされた旋律を思わせるところはストラヴィンスキーのバレエ《結婚》の冒頭部を思わせるような造形がなされている。反対に律動的なアレグロの部分を書くときでも、例えばオペラ《チンギス・ハーン》のバレエ部分などは《火の鳥》や、部分的に《春の祭典》を思わせる。さらにバレエ《狭間の世界》ではもっと明確な形で《春の祭典》を下敷きにしたと思われる箇所が多数ある。
 このようなストラヴィンスキーの参照は、シャラフほど積極的ではないにしても、この世代以降のほかのモンゴル国の作曲家にも見られる。「民族的語法」を音楽作品に取り込む際にストラヴィンスキー作品が重要視されるという傾向は戦後日本にも見られ、興味深い。
 それ以前の世代は強烈にソ連の音楽界の、上から求められた保守性の、それが更に極端に守られる形となった。なぜなら、モンゴル国の「公式芸術」はソ連と言う「窓」を通して西洋芸術を吸収したから。さらに上の世代の作曲家であり指揮者としても名を馳せたTs.ナムスライジャブはモンゴルのオーケストラの名刺的作品《祝典序曲》を《ルスラン・とリュドミュラ》序曲からヒントを得て書いたし、J.チョローンは国民的バレエ《オラン・ハス(職人のハス)》を作るときチャイコフスキーやグラズノフなどロシア国民楽派によった。非常にロマン派的なやり方が20世紀後半も守られることになった。ただ、やはりバレエの《チョイジド夫人の物語》で知られるE.チョイドグにとってのアイドルは少し進んでハチャトゥリアンであった。
 ようやく1980年代後半になって、ストラヴィンスキーやバルトークなど、「周縁からやってきた新音楽」がモンゴル国でもぼちぼち取り入れられるようになった。上記のように、ストラヴィンスキーが一般に演奏されるのはもう少し遅れたのだった。

音楽の話をしよう

 自分の役割(目標)は、日本で、あるいは世界で、モンゴル音楽について「音楽の話」がもっとできるように、そのために貢献することだと思っています。
 これはモンゴルの音楽について、ガチガチの音楽美学的議論をしようというのではありません。もちろんそういった議論をきちんとできるようにすることも含めてですが、もっと広義の話です。モンゴル音楽に関する多くの言説が、「草原の国の」音楽、「発展途上の国の」音楽、と言う以上の物ではない場合がまだまだ非常に多い。そこで思考停止してしまっている。例えばモンゴル国の現代作曲家の作品が、「遊牧民族の末裔の作った、珍しい音楽作品」という受け止め方しかされない。
 そもそもモンゴル人の伝統音楽に関する研究なら、そのモンゴルや中央アジアの文化の「回廊性」等の観点や世界音楽研究の視点からまだやる価値があるとしても(筆者はこちらにも大いに興味があります)、はっきりいって小国で文化的影響力も少ないモンゴル国の近現代の作品など研究する価値はないという見方もあるでしょう。
 しかし、伝統音楽にしろ、現代音楽にしろ、ポピュラー音楽にしろ、とにかく紋切り型の説明ではなく、もっと音楽の中身がわかる、あるいはその音楽が歌われ、演奏され、聴かれる場の雰囲気や歴史が語られなければ、いつまでたっても思考停止、他者の文化への理解からは程遠い状態です。またステレオタイプな「モンゴル的」というパッケージングをしてしまうことで、モンゴル内部での多様な文化のあり方を見逃してしまい、また現代の個々人の創造的音楽活動の阻害ともなる可能性があります。
 と言うわけで、「世界音楽研究」「音楽学」「音楽評論」として成り立つような形でモンゴル音楽がモンゴル人以外の間で語り合うことができるようにし、他者理解の一助としたい、と言うのが筆者の希望なのです。

Overture "A Festival in Urga" by Natsagdorj, Ts.



This Natsagdorj(1951-2010)'s symphonic overture describes a festival in "Urga". Urga(Mongolian: Өргөө, Örgöö, "Residence") or is an old name of Ulan Bator. He started to receive a professional education of music in the state teachers college(many Mongolian famous composers graduated this college.) and he studied also in Ural conservatory of Soviet. He wrote many works of all kinds. Operas, ballets, symphonies, chamber music, film music, Lieds, popular songs and so on.
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プロフィール

Yapony Bagsh

Author:Yapony Bagsh
Welcome to the world of Mongolian music! I've studied Mongolian language and musical culture in Ulaanbaatar(the capital of Mongolia) for one year. I hope you enjoy various music of Mongolic peoples.

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